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【2024/03/29 15:35 】 |
すったもんだ台湾116 本よめわんわん


 「ボーイズビーアンビシャス」

 の演説の途中には、金や名声のためでなく

 知識やなんとかのために 野望を持て、という内容が

 語られています。 北海道の農業の大学かなんか開いた外国人が

 開校のときに言ったセリフです。


 知識に貪欲になれ、ねぇ。

 ブログなんかかいてるよりも

 本読んだほうがずっとためになるわ。

 とおもい、

 ジュンク堂で本買ってきた。

 これから読みます。

 司馬遼太郎とか。浅田次郎とか。ガンダムUCの3とか。


 あ、参考までに。

 ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark、1826年7月31日 - 1886年3月9日)は、
札幌農学校(現北海道大学)初代教頭。いわゆるお雇い外国人のひとりである。
日本ではクラーク博士として知られる。

専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。この他、学生達に聖書を配り、
キリスト教についても講じた。のちに学生たちは「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、
キリスト教の信仰に入る決心をした。
 
 ウィキクォートにウィリアム・スミス・クラークに関する引用句集があります。
彼の言葉、「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」は、よく知られている。
これは、札幌農学校1期生との別れの際に、北海道札幌郡月寒村島松(現在の恵庭市島松)で
クラークが発したものとされている。しかし、この文言は、クラークの離日後しばらくは
記録したものがなく、後世の創作によるものだと考えられた時代があった。
1期生の大島正健(後の甲府中学校(現甲府第一高等学校)の学校長)による離別を描いた漢詩に、
「青年奮起立功名」とあることから、これを逆翻訳したものとも言われた。

しかし、大島が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容を、安東幾三郎が記録。
安東が当時札幌にいた他の1期生に確認の上、この英文をクラークの言葉として、
1894年ごろに同窓会誌『恵林』13号に発表していたことが判明した。
安東によれば、全文は「Boys, be ambitious like this old man」であり、このまま訳すと
「この老人のように、あなたたち若い人も野心的であれ」という意味になる。
安東の発表の後、大島自身が内村鑑三編集の雑誌 Japan Christian Intelligencer, Vol.1, No.2 での
クラークについての記述で、全く同じ文章を使ったことも判明した。
また大島は、「クラーク先生とその弟子たち」の中では、次のように述べている。

先生をかこんで別れがたなの物語にふけっている教え子たち一人一人その顔をのぞき込んで、
「どうか一枚の葉書でよいから時折消息を頼む。常に祈ることを忘れないように。
では愈御別れじゃ、元気に暮らせよ。」といわれて生徒と一人々々握手をかわすなりヒラリと
馬背に跨り、"Boys, be ambitious!" と叫ぶなり、長鞭を馬腹にあて、雪泥を蹴って疎林のかなたへ
姿をかき消された。
この時に「Boys, be ambitious in Christ (God)」と言ったという説がある。
また、「青年よ、金、利己、はかなき名声を求むるの野心を燃やすことなく、
人間の本分をなすべく大望を抱け」と述べたという説がある。
また、「Boys, be ambitious」は、クラークの創作ではなく、当時、彼の出身地のニューイングランド地方で
よく使われた別れの挨拶(「元気でな」の意)だったという説もある。

一方、彼は札幌農学校の校則について、開拓使長官の黒田清隆(後の内閣総理大臣)に
「この学校に規則はいらない。Be gentleman(紳士であれ)で十分である」と進言したと言われている。
それまで士族の子弟が雁字搦めの徳目に縛られていたのと比べると、これはいかにも簡潔なことであった。
しかし、何をして良いのか、何をしてはいけないのかは自分で判断しなければならないため、
自由でありながら厳しいものとなっている。ただし、開校日にクラーク自身が学生に提示した学則は、
これよりはるかに多い。これは、クラークの前任者であるホーレス・ケプロンの素案をそのまま使ったため
とも言われている。

離日後もクラークは、黒田清隆や教え子との間で、手紙による交流を続けた。
現在も多くの手紙が残っている。

だそうです。

あれ?ビームの知ってる内容と違うな。
まあいっか。
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【2011/03/28 21:52 】 | すったもんだ台湾 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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